茂右衛門と「石茂」について
「茂右衛門」(もえもん)は、創業以来290余年間、芳村家代々当主が襲名してきた名前です。そして、弊社の屋号である「石茂」(いしも)は『石工の茂右衛門』を意味しています。
弊社は、江戸時代の享保年間(1716年〜1736年)に創業したと言い伝えられています。
初代の茂右衛門は、吉村の姓として、京都・白川村に生まれました。白川村は、銀閣寺前の白川通り辺りに位置します。比叡山を源として流れる白川の川沿いに広がるこの地域は、良質な花崗岩「白川石」の産地であり、京都の石材店発祥の地とされています。
おそらく二代目作とされる、文政三年(1820年)に寄進された教王護国寺(東寺)の宮燈篭には「白川石工 茂右衛門」の名が刻まれています。文政三年(1820年)から文久元年(1861年)までの江戸末期約40年間は、その他にも北野天満宮・晴明神社・長岡天満宮などの宮灯籠に多くその名が残されています。
白川にルーツをもつ私たちですが、1830年頃に二代目或いは三代目によって、現在も店をかまえる京都市内中心部の堀川椹木町に移転しました。当時は石を産地から船で運んでいたため、運搬の水路として堀川が目の前にあるこの地を選んだのではないかと考えられます。
三代目茂右衛門は、京都の狛犬造りの名石工として名高かったと伝えられています。明治15年(1882年)から明治40年(1907年)にかけて、「石工 茂右衛門」の名が刻まれた「石茂型狛犬」が多く制作されます。三代目と四代目の作品と思われる狛犬は、北野天満宮・敷地神社(わら天神)・上御霊神社・下御霊神社などで現在もみることができます。
また明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水の石工事にも関わり、この頃から一人の職人頭の立場から少しずつ大きな石工事を束ねる石工集団のディレクターとしての役割が増えてきました。
その後も五代、六代、七代と代々技術を受け継ぎ、宮燈籠・狛犬だけでなく、弊社が得意とする石鳥居や社寺建築の石工事を中心に、墓石や一般建築や公共事業など、時代の変化と共に石文化を護り継いできました。
現代では、伝統的な施工工法を受け継ぎつつ、現代の技術を取り入れ、より効率的な施工をしています。石材の加工・施工技術は、戦後の近代化に、大幅に発展しました。昭和39年頃までは、早朝から石工たちが鍛冶仕事をし、道具の歯立てをしてから建築現場に出る、という風景がありました。
しかし、近代化が進むと、石材加工の大部分が機械を用いたものとなりました。その結果、産地や加工工場で石を製作することが一般的となりました。現場での施工においても、手道具だけでなく、電動工具を使用した細かい石の加工が出来るようになりました。重量物を据え付ける際には、ユニッククレーンやカニクレーンを使用した工事も行っています。